Ubuntuは「当たり前」の存在

 先週末のことだ。友人がデスクトップ・パソコンのWindows XPに問題が絶えないと嘆いていた。そこで、私も手伝ってそのパソコンにUbuntu 7.04をインストールした。すると、問題は雲散霧消してしまった。これを切っ掛けに、私は自分の「常用」コンピューター、やはりUbuntu 7.04が動作しているDell Latitudeについて思いを巡らせた。そして、この何か月もの間、我がノートパソコンやそこで動作しているオペレーティング・システムについて取り立てて意識したことがないことに気づいた。Linux、とりわけUbuntuは信頼性が高く簡素で、ほとんどのエンドユーザーにとって、カナヅチやノコギリのような存在、殊更に考える必要もない存在なのだ。これは、GNU/Linuxはあえて目を向ける必要のないほど当たり前の存在になったということだろうか。

 Ubuntuの最新バージョンは現在8.04だが、私のUbuntuは7.04のままだ。したいことはすべてできる信頼できるシステムをアップデートする必要性はあまり感じない。確かに7.04にはセキュリティー上の大きな欠陥が1つあったが、Ubuntuの自動アップデート機能によってとっくの昔に対処済み。友人のパソコン上のUbuntuもインストールと同時に改修されている。

 今この記事を執筆している最中も、Ubuntuのソフトウェア・アップデート24本が(自動的に)ダウンロードされインストールされているところだ。私の使っているUbuntuは成熟した「実証済み」バージョンであり、常用しているソフトウェアについては最新版や最強版があっても移行していないため(たとえばFirefoxは今も2.xxを使っている)、そうしたアップデートでシステムが壊れるリスクはほとんどない。Ubuntuのアップデートについてはここ数年意識したことはなく、この点でも信頼性が高く、意識に上らないほど「当たり前に機能する」状態にある。実際、今Ubuntuのアップデートについて考えているのは、この記事を書いているからなのだ。

Microsoft Office 2007の問題点

 はじめに断っておくが、私自身は2007に限らずどのバージョンのMicrosoft Officeでも困った経験はない。そもそもMicrosoft Officeを所有したことが一度もないのだ。ここで話題にするのは、コンピューターとVistaとOfficeを新規に購入した友人(男性)についての話だ。選挙に立候補している彼は選挙運動を支援している友人(女性)に文書を次々と送るが、彼女は彼の文書を読むことができない。彼女が持っているOfficeのバージョンが古いからだ。

 私の場合、彼が送ってくるOffice 2007の文書をOpenOffice.org(OOo)で読むのに何の支障もない。アドオンodf-converter-integratorがOffice 2007形式を処理してくれているからだろう。その結果は上々だ。このアドオンはUbuntu 7.04に同梱されていたOOoにはなかったと思う。あったとしても、まだ初期のアルファ・バージョンだったろう。しかし、そのときから現在までのいつかの時点で、気の利いたUbuntuアップデートのいずれかによってOffice 2007文書をOOoで読むための実用レベルのツールが私のシステムにインストールされていたのだと思われる。素晴らしいではないか。

 一方のOfficeはというと、Office 2007のファイルを2007以前のバージョンのOfficeで読むためのある種のアドオン・ユーティリティーがMicrosoftから提供されていることが若干の調査で判明した。しかし、結局のところ、彼が定期的にファイルを送っている8人ないし10人にそれぞれのOfficeをアップデートしてもらうより、彼一人にOffice 2007で古い.doc形式を使って文書を保存する方法を教える方が簡単だった。

 そうこうしているとき、私が無償のオフィス・ソフトウェアという魔法を使っていることを知った彼の友人2人がOOoの入手方法を尋ねてきた。かくして、世界のOpenOffice.orgユーザーが2人増えたというわけだ(今のところWindowsを使っているが)。

オープンソースの小さな小さな勝利

 私はInternet ExploreからFirefoxに乗り換えるのを手伝ったこともある。このときは今回より若干多い8人ほどだった(申し訳ないが、まだWindowsだ)。その上、その中の数名はOutlook ExpressをやめてThunderbirdに切り替えてもいる。いずれ、ほかの人たちも後を追うだろう。

 それでは、その中の何人がGNU/Linuxの世界に飛び込んだだろうか。実は、まだ一人もいない。しかし、いずれ、Linuxのインストール方法を尋ねてくるだろうと思う。私のノートパソコンを見た人たちは、それが簡素でありクリーンでキビキビと動く様子に感嘆していたし、不要なツールバーで満艦飾のブラウザーや欲しくもないソフトウェアのデスクトップ・アイコンがないことにも感心していた。そして、ウィルス対策ソフトウェアのコストを永久に負担し続けることに倦み始めている。そのウィルス対策ソフトウェアは、おそらく、金を払ってコンピューターに試用版を組み込んでもらったメーカーのものだろう。

Vistaを巡る誰も言わない大きな問題

 私の友人や隣人たちは必ずしも裕福ではない。その中には、普通の労働者やアーティストや退職者たちもいる。コンピューターを楽しんでいる人は多くなく、使ってはいても仕方なしの場合が多い。ハードウェアやソフトウェアをアップデートするのは最新技術で楽しみたいからではなく、ほかに選択肢がないと思うからだ。彼らの多くにとってコンピューターの買い換えは大きな決断であり、典型的な理由は新しい機能が欲しいからではなく、現在持っているコンピューターにトラブルが発生したからだ。

 今コンピューターを買うとすれば、ほとんどの人にとって唯一選択可能なWindowsはVistaだが、これもハードウェアの買い換えをためらう一因になっているようだ。隣人の中で最もコンピューターに疎い人でさえ、Vistaは要らないと思わせる情報をよく見聞きしているのだ。かくして、手元にある「壊れた」コンピューターを使い続けるか、厄介という点では現状と大差ないかもしれないVistaコンピューターに買い換えるか。ジレンマに陥ることになる。

 第3の選択肢は、今あるコンピューターを専門家に修理してもらうことだ。しかし、コンピューターを所有している近在の人で、よく知られている修理サービス、とりわけ大手電子機器販売店(あえて名を秘す)の修理サービスに依頼したという例をほとんど聞かない。したがって、彼らは一般に第4の選択肢を選ぶことになる。「コンピューターについて知っている」友人または友人の友人を探し支援を乞うのだ。

 スケジュールが立て込んでいるのでそういう状況にならないようにしているのだが、仮に私がその友人であったとすれば、Linuxにはないソフトウェアがどうしても必要である場合を除き、Windowsの再インストールは断るだろう。

 私なら、GNU/Linuxを「壊れた」コンピューターにインストールするよう説得する。もちろん、その結果、ひっきりなしに質問される事態になることは承知の上だ。Linux.comを見ている人ならわかってくれると思うが、何であれ一度コンピューターに疎い利用者を助ければ、その後永遠に彼らの(無償の)コンピューター・アドバイザーを務める羽目になるのは目に見えている。

 しかし、気のせいかもしれないが、ほどほどの(先端的ではない)Linuxインストールの場合、最初の質問の嵐さえ過ぎてしまえば、Windows XPの再インストールや真新しいVista搭載コンピューターなどよりストレスも苦痛も少ないように思う。

 真新しいコンピューターと大々的に宣伝されている最新Windowsオペレーティング・システムを手に入れるのは、確かに、心躍る出来事ではある。しかし、私の知る限り、ほとんどの人にとっては、黙々と「当たり前に機能する」コンピューターの方が好ましい。そして、コンピューターのほとんどあらゆる利用者にとってLinuxは完璧にそういう存在になっている。マウスの左ボタンと右ボタンの違いを説明する必要がある人にとってさえも、そうなのだ。

 と、ここまで書いたところで、システムを再起動することにする。執筆中にバックグラウンドで進行していたUbuntuアップデートにはカーネル・アップデートが含まれている。ほとんどのアップデートとは異なり、カーネル・アップデートの場合は再起動が必要だ。しかし、Windowsとは異なり、Ubuntuの場合は、中断の難しい作業中であってもかまわず絶えず再起動を要求するようなことはない。

 繰り返しになるが、Linuxが当たり前の存在――最善の状態――になったという確かな実例がある。

Linux.com 原文