FLOSSとStreamtimeによるイラク自由化の活動

 「技術者」ではないが単独でもギークとして多様な分野で活躍するクリエイティブな人々が集まり、ある決意をした。イラクの人々に戦争中の体験を大勢の聴衆に向けて自由に語る機会を提供しようというのだ。自分たちをStreamtimeと呼ぶこうしたギークたちがやり遂げようとしたのは、インターネットラジオの実験を実施することであり、コンピュータとインターネット接続さえあればどこででもDyne:bolicなどのフリーソフトウェアを使ってインターネット放送のコンテンツを即時に作成できる方法をイラクの人々に教えることだった。

 2004年の夏、Streamtimeは準備を整えてアムステルダムからイラクへと旅立った。そして、爆破テロとハッキング攻撃に屈することなく、勝利と被虐の間を激しく揺れ動いた国に表現の自由をもたらした。実験は終了したが、彼らの活動は今なお続いている。

 Streamtimeの創始者は、「アクティビスト・ラジオメーカー」とも呼ばれるJo van der Spek氏である。2004年2月、彼は、流浪のラスタファリアンでフリーソフトウェアプログラマのDenis Rojo氏に近づいた(Rojo氏はDyne:bolicの開発者であり、「jaromil」という名のほうがよく知られている)。それはRojo氏が講演者として招待されていたNetworking Europeというイベントでのことだった。「コーヒーを飲もうとカウンターに立っていると突然、おかしな表情をした背の高いやせた男がやって来て、Jojoと名乗ったんだ」とRojo氏は言う。van der Spek氏はjaromil(Rojo氏)のソフトウェアプロジェクトを褒めたたえ、イラクにおける独自のメディア放送に参加しないかと彼に声をかけた。「私は嬉しくなり、彼の言う『独自』の真の意味をすぐに悟った」とRojo氏は話す。

 van der Spek氏は真実を明らかにするという使命を抱いてバグダッドに行き、自らの体験を記録していた。彼は次のように記している。「午後4時、Salamと一緒にイラクの文化相Mufid Al-Jazairi氏に会った。彼はラジオ放送について話したがっていた。彼の属する共産党が放送を始めようとしていたが、彼自身は文化大臣として文化的なラジオ放送を開始したいと考えていた。そのねらいは、人々による文化的な表現活動を奨励し、日常生活を映し出すことにあった。実際、イラクの人々はこうした活動のやり方を学び直す必要がある。というのも、フセイン政権下の恐怖政治によって人々との間でコミュニケーションを行う普通の習慣が崩壊してしまったからだ。彼の顔を見ながら私が思い出していたのは、ナチスのブーヘンヴァルト収容所に移送された自らの体験を『The Long Road』(?)とかいう本に書いた別の文化大臣(任期の短かったスペインの元文化大臣Jorge Semprun氏、著書の正しいタイトルは『The Long Voyage』)のことだった」

 van der Spek氏は、Dyne:bolicを使ってワークステーションをインターネット放送用マシンに換えることで、何百もの小さなラジオ局を作いたいと考えた。Dyne:bolicは、そのための必要なデジタルメディアソフトウェアのすべてを備えたLinuxライブCDである。ほぼどんな種類のIntelハードウェアでも動作し、ハードディスクにインストールする必要がない。また、メモリ上で実行されるので、ワークステーション側には実行の痕跡が残らない。そのため、仮に当局から不正なラジオ放送として目を付けられた場合に告発される危険を冒してでも活動を続ける可能性のある占領地域の人々が利用しても安全だ。

 バグダッドで10日間を過ごしたvan der Spek氏は、居ても立ってもいられなくなった。「今こそ、従来の放送やストリーミングの実施に向けて技術者たちとチームを組むときだ。アル・ジャジーラの放送で、日本人の人質数名がナイフで脅され、アラーは偉大なりと言わされようとしている様子を目にした。アズ・サマワーでも2名のオランダ兵士が捕らわれたようだが、やがてはオランダにいる人々もこの件の詳細を知ることになるだろう。敵が現れるのをただ待ち続けたり、見ず知らずの警備員を当てにしたりするのではなく、自ら積極的に何かができるというのは実にすばらしいことだ」

 van der Spek氏は、オランダ人調査報道ジャーナリストCecile Landman氏のもとを訪れた。イラクのために「何かできることを行う」活動に参加してほしいとのvan der Spek氏の要請を受けたことについて、彼女は次のように語る。「考える必要なんてありませんでした。イラクによる侵略とその後の悲惨な展開に、私は深く失望していたのです」。van der Spek氏、Landman氏、Rojo氏(jaromil)のほか、自称「メディア理論家」でWebデザイナを生業とするGeert Lovink氏と、Michaelという名のもう1人の「ラジオアクティビスト」もこの活動に加わった。彼らはアムステルダムにある文化政治的な会合の場であるDe Balieの中二階で顔を合わせた。De Balieは、このグループにぴったりの場所だった。というのも、90年代後半にベオグラードのRadio B92というラジオ局の放送が不法行為にあたるとして同局の送信機がセルビア政府に押収された後、同局を支援するグループ(van der Spek氏はここにも参加している)が集まった場所だったからだ。

 一部のメンバーがイラクのハラブジャに拠点を設け、残りのメンバーはアムステルダムに残って「技術やコンテンツの問題」についてフィードバックを与えた、とLandman氏は話す。最初の放送は2004年6月30日に行われた。「こうした初回の放送はそれほど容易なことではありません。ときには接続上の問題も起こりますから」というのが30分番組のホストを務めたMichaelの最初の言葉だった。インターネット接続が何度も切れるのでときどき音声が不明瞭になったり聞こえなくなったりした。だが、こうした問題にもかかわらず、放送は成功とみなされ、1988年3月にサダム・フセインがハラブジャに対して毒ガス攻撃を仕掛けた「血の金曜日」の犠牲者たちが取り上げられた。「おそらく、これがイラク初のインターネットラジオ番組でしょう」とLandman氏はStreamtime.orgに記した。このときの番組は、音楽、血の金曜日の回想、当時の出来事に対する解説を織りまぜた内容だった。

 バグダッドに最初の放送が流れてから1週間が経たないうちに、Streamtimeにとって状況は好転しつつあるように見えた。Streamtimeによる放送は7月を通して週に2回、個人の自宅、インターネットカフェなど「放送が可能なあらゆる場所」から行われた、とLandman氏は語る。しかし、8月になって事態は悪化した。8月1日のレギュラー放送の直後に「我々は爆発によって現実に引き戻された」とMichaelはStreamtime.orgに書いた。その日、近くにあるシリアのカトリック教会が自動車爆破テロの標的になり、11名が死亡したのだ。ラジオ制作チームの士気は急速に低下した。「暑い日で、空調のないところで食事をするためにバルコニーに出たが、辺りはガラスの破片だらけで、1人が足を切って血を流していた。我々は止血を試みた(中略)。食事の後、彼らは古い歌を歌い始めた(かなり昔の歌だ)。ここで暮らす人々の何世紀にもわたる悲痛の声が心に響いてきた。私の目から涙がこぼれ出た」(Michael記)

 アムステルダムで結成されたこのグループがイラク国内から生放送を実施できたのは、8月11日が最後だった。滞在を続けるには、あまりに危険な状況になったのだ。「8月末、最後までバグダッドに残っていたメンバーを呼び戻す決断をしました」とLandman氏は話す。「危険きわまりない情勢でした。ジャーナリストの役割はますます重要になっていましたが、グリーンゾーン(米軍管理区域)内の掩蔽壕化されたバルコニーから報道を行うジャーナリストが増えていました。2004年8月は一転してテロ行為、非道な誘拐、斬首が増加した時期でStreamtimeはイラクを去ったのです」

 容易に後には引けないStreamtimeは、イラクでまた別のインターネットラジオ放送を試みることを決め、2005年4月1~3日にイラクのバスラで行われたMerbed Poetry Festivalに参加した。「昨年までフセインはこの著名な記念祭を自らの政治目的に利用してきたが、今回は自由を祝う催し、旧友との再会、過去の痛みに向き合う初めての試みなど、解放的な雰囲気に包まれ、今後の自由な芸術表現とイラク社会全体の啓蒙と発展への貢献というテーマが明確に打ち出されている」とvan der Spek氏は当時の様子を書き残している。イラクのLinuxユーザグループ(ILUG)の共同設立者Bassam Hassan氏がvan der Spek氏の活動に加わったのはこのときだった。爆発寸前の状態にあった政治情勢と、いつ攻撃があってもおかしくない戦時体制を理由に、彼らはノートPCをモバイルラジオ局の拠点として使うことにした。

 Merbed記念祭の各イベントをストリーミング配信することが最大の目的だったが、「いかなる行政組織、政治または宗教団体からの統制や影響も受けないフリーの独立系メディアを根付かせる」という目的もあった、とHassan氏はその活動の要約に記している。彼らは、Dyne:bolicテクノロジの使い方を教授し、「自らの手で独立系フリーラジオを立ち上げる意欲を引き出す」ための教室を地元のホテルに設けることで、こうした目的を達成しようとした。

 聴講に訪れた8名の参加者に対し、van der Spek氏はオープンパブリッシングとフリーメディアの概念を説明した。Hassan氏はインターネットストリーミングの原理を解説し、LinuxとDyne:bolicの紹介を行った。さらに、聴講者たちは「日常的に用いる」コマンドラインインタフェースの使い方と、Audacityを利用したラジオ放送コンテンツの作成方法も習得しようとした。彼らが知る必要のあるすべてのことをvan der Spek氏とHassan氏は教えた。Merbedストリーミングのテスト放送を手伝うために、翌日も講義が行われた。その後、Hassan氏は「受講生たちがストリーミング配信活動を継続できるように、我々は追加指導の機会について彼らと話し合った」と記している。Hassan、van der Spekの両氏は、詩の録音やライブインタビューの実施を通じて実際のフェスティバルの報道を援助してくれるように、彼らに話を持ちかけた。

 記念祭の初日、Streamtimeチームは技術的な問題に遭遇したため、放送を断念した。しかし2日目には、信頼に足る電源を配置することで、まずまずの音質が確保された。「3日目も同じやり方を取った。我々はたくさんの録音を実施し、できるだけ多くの詩人やアーティストに参加してもらおうとした」とHassan氏は記している。

 van der Spek氏がバスラから帰国して以来、グループはイラクに戻ってWebストリーミング配信を再開する可能性について「悲観的」な見方をしている、とLandman氏は話す。「最善の策、そしてもしかすると唯一の策かもしれないのは、イラクのブロガーたちとのネットワーク作りに注力することです。彼らは、さまざまな状況を越えて意見、思想、唱歌、熱弁を吐き出す独創力を発揮し、そうした活動をWeb経由で行っています」。Streamtimeは、イラク、アフガニスタン、イラン、レバノンの人々によって書かれたブログ記事をリポストし、Webストリーミングに関するチュートリアルへのリンクを掲載している。

 現在Landman氏は、ブロガーたちとの連携こそが、イラク国民による表現の自由の獲得を支援するというStreamtimeの役割を最も良い形で実践する方法だと信じている。彼女は次のように語る。「ブロガーたちはすでに他の組織と連絡を取っていました。そのため、私自身は文章の表現スタイルに関する助言を与え、活動の継続について納得させるという点で役に立ってきたと思っています。また、世界中が彼らの意見に耳を傾け、その内容がいかに辛辣なものであるかを知る機会を得ることが重要だとも考えています」

 「ストリーミング配信を行わないばかりかイラクに滞在もしていないことから、やはり敗北感はあります」ともLandman氏は言う。「Streamtimeの意義を測るのは非常に難しいことですが、アフガニスタンのあるブロガーは、私に次のように伝えてくれました。『私はあなたのWebサイトを訪れ、記事を探したり、いつも利用しているリンクに新しいものがないかチェックしたりしている。私にとって、あなたのサイトはイラクとイラクのブロガーたちにつながる扉のような存在だ』」

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